浦和レッドダイヤモンズ(浦和レッズ)

浦和レッドダイヤモンズ(うらわれっどだいやもんず Urawa Red Diamonds)
日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。
ホームタウンは埼玉県さいたま市(合併前は浦和市)。
呼称は「浦和レッズ」である。








クラブ概要
Jリーグ発足時から参加しているチームで、屈指の観客動員力を持つ人気チームである。

経営は三菱自動車工業の子会社である「株式会社三菱自動車フットボールクラブ」が行なっているが、2005年に三菱自動車工業との「損失補填条項」を解除し、独立採算性へと移行。親会社に頼らないクラブ運営を行っている。創設当初は、三菱自工の100%完全出資であったが、1996年12月に埼玉県、浦和市(当時。現在のさいたま市)からの増資出資を引き受け第3セクター方式での運営となる。その後2000年12月に資本金を引き上げるに当たり、上記3社・自治体の他三菱グループのディーシーカード、東京海上火災(現・東京海上日動火災保険)、三菱建設(現・ピーエス三菱)、三菱商事、三菱地所、三菱重工業、三菱電機をはじめ、地元マスコミのテレビ埼玉、エフエムナックファイブ、埼玉新聞、及び埼玉りそな銀行、埼玉縣信用金庫、三国コカ・コーラボトリング、埼玉交通等地元企業などからの出資を受けている。

1991年Jリーグ加盟。前身は三菱重工業サッカー部(1990年にサッカー部の帰属を子会社三菱自動車工業に移管し、三菱自動車工業サッカー部となる)。ホームスタジアムはJリーグ加盟時は浦和駒場スタジアムのみであったが、現在は埼玉スタジアム2002もホームスタジアムとして登録されている。(1992年のJリーグヤマザキナビスコカップ、1994年第2ステージおよび1995年第1ステージは駒場のスタジアム増築のため大宮公園サッカー場(当時は大宮市)を暫定ホームとした)練習会場は同市内の大原サッカー競技場を使用しているが、近年は同市の荒川河川敷に「レッズランド」を整備し、将来的にここをメイン拠点としてヨーロッパや南米のサッカークラブが目指す総合スポーツクラブ作りに着手することも念頭においている。

チーム名は、クラブのイメージカラーの赤と、ダイヤモンドの結束力、輝きをイメージしたもの。チームカラーの赤は浦和を舞台にしたサッカー漫画『赤き血のイレブン』にちなんでいる。また、「レッドダイヤ」には三菱のマークである「赤いスリーダイヤ」の意味も込められている。

2005年2月、さいたま市を拠点とするなでしこリーグのさいたまレイナスFCを傘下におさめ、名称を「浦和レッズ・レディース」とすることを発表した。また、チーム本社機能の一部も2005年シーズンの開幕以後埼玉スタジアム2002内に移転した。

2005年12月には、「24時間いつ聴いてもレッズ」をコンセプトにしたコミュニティ放送局、エフエム浦和 (REDS WAVE) が開局。

2006年1月、ドイツの名門バイエルン・ミュンヘンとパートナーシップを締結した。7月31日、埼玉スタジアムにて両チームの親善試合を「さいたまシティカップ」として行った。


さいたま市浦和区に位置するオフィシャルショップ「RED VOLTAGE」。2005年5月29日撮影

概説
日本リーグ時代の三菱重工サッカー部は全日本サッカー選手権大会、JSL杯と合わせた三冠を獲得した第1号の実績を持ち、古河電工(現:ジェフユナイテッド市原・千葉)や日立(現:柏レイソル)とともに丸の内御三家と言われた。
1991年のJリーグ創設時より加盟しているチームのひとつ。

三菱自体は浦和に何の縁も無く、当初は別の地域(東京都)を本拠とする予定であった。また浦和市(当時)側も別のチーム(本田技研サッカー部)を誘致しようとしていた。しかし、三菱は本拠地として予定していた江戸川区陸上競技場の増設が困難であったことや練習場の確保の問題からJリーグ加盟の要件を満たせず、また浦和市もホンダが会社の方針によりプロ化を断念したことからまとまらなかった。その後、三菱は神奈川県平塚市を本拠とすることも検討されたが、既にフジタ(後のベルマーレ平塚、現:湘南ベルマーレ)の誘致が決まっていたことから断念することとなり、更に三菱重工サッカー部の初期の本拠地だった神戸市とも交渉をしたが、こちらも折り合いが付かず本拠地を見送り、Jリーグのクラブの誘致活動をしていた浦和をホームタウンにすることとなった。

こういった経緯がある為に、当初クラブ側はチーム名に三菱のトレードマークであるダイヤモンドを入れ、クラブ名にも三菱を冠するなど、Jリーグのクラブの中でも比較的地域色を前面に出さず、企業色を強く打ち出す体制であった。

しかし、もともとサッカーが盛んな地域(埼玉師範学校(埼玉大学教育学部の前身)、県立浦和高校、県立浦和西高校、市立浦和高校、浦和南高校の5校が高校選手権を制覇している)でありながら、実績面においては既に過去のものとなり、サッカーファンの応援の対象が存在しなくなっていたことや周辺人口の多さ、Jリーグ発足当初、東京にJリーグのクラブが置かれなかったことなどが要因となって、落下傘チームでありながら近隣のサッカーファンの獲得に成功。Jリーグ発足以来ずっとトップクラスの観客動員力を維持するJリーグ屈指の人気クラブとなり、Jリーグの理念である地域密着を体現するクラブの一つとなった。サポーターの熱狂的な応援はホームスタジアムにとどまらず、アウェー(関東はもちろん広島や大分などの遠隔地まで)の試合にも出向いて熱い声援を送るほどである。キャパシティの小さいスタジアムでのアウェイゲームでは、多くのレッズサポーターが相手チームのファンクラブに入会し、ファンクラブ優先販売でチケットを確保したことも何度かある。またその他のアウェイゲームでもレッズサポーター数が多く、アウェイのサポーターが他のチームではほとんどいないアルビレックス新潟の新潟スタジアムでも他のチームが100〜1000人に対してレッズサポーターは6000人を軽く超える勢いがあり、リーグ優勝のかかっていた2005シーズン最終節では10000人以上がレッズサポーターだったといわれる(逆に埼玉スタジアムでのアルビレックスサポーターの数も他のチームより多い)。また、遠征に賭ける熱意は国内のみならず、2004年にイングランドのマンチェスターで行われた「ボーダフォン・カップ」にも、数百人単位でサポーターが遠征したほどである。他チームにとってレッズ戦は文字通りのドル箱カードであり、ほとんどのチームは、浦和戦の時のみ、アウェイ席の割合を他チームとの対戦時と比べ拡張したり、普段は閉鎖しているスタンドの一部を全面開放したり、キャパシティの大きいスタジアムにて開催したりしている。過去2年、アルビレックス新潟に年間最多観客動員の座を譲っているが、Jリーグの観客動員記録の大半は浦和レッズが持っている。2006年は、埼玉スタジアム開催試合がさらに増えること(リーグ戦17試合中15試合)、大型補強による戦力充実などが好材料となり、再び年間最多動員の座(史上最多記録にて)を手中にすることがほとんど確実視される。もっとも、レッズサポーターは埼玉県のみならず、日本全国(そして海外にも)に広く存在しており、特にアウェイ動員の多さは、そういった遠方サポーターの力も見逃せない。

また、サポーター数のJリーグの群を抜く多さ、埼玉県民の所得の高さ、サポーターの熱もあって、当然ながらグッズ購買力も群を抜いており、年間10億円を上回るグッズ売上(他クラブの倍以上)を誇っている。オフィシャルショップ「RED VOLTAGE」は、ホームゲーム開催日にはレジに長蛇の列が出来るほど大盛況であり、また埼玉スタジアム・駒場スタジアムの店舗においても、人だかりが絶えない。

しかしJリーグ発足後は下位に低迷することが多く、人気に見合うほどの成績を収めることが出来なかった。また2000年にはJ2降格も経験している。このため苛立った一部のサポーターによる乱行(客席での発煙筒事件やピッチへの乱入事件。特に国立霞ヶ丘陸上競技場ではそれらのトラブルで一時公式戦主催を規制することも検討された)のみが目立ってしまうことになった。

近年は選手層が充実したこともあって、2003年には初タイトルとなるナビスコ杯優勝を、2004年には第2ステージ優勝を果たし、2006年1月1日にはプロ化後初めて天皇杯全日本サッカー選手権大会を制するなど、人気・実力ともにJリーグトップクラスのクラブになろうとしている。

そのファンの熱狂度と、10数年前の弱さ、現在の強さと相まって「Jリーグの阪神タイガース」と言われたり、それとは逆に豊富な資金力で有力選手を獲得していることから「Jリーグのレアル・マドリード」と言われることもあるが、その潤沢な資金のほとんどは熱烈なサポーターからの入場料収入・グッズ収入、およびスポンサー収入で賄われており、親会社からの補填ではない点は特筆すべきである。 また、タイトル獲得時の賞金の一部を、さいたま市内の全幼稚園・小中学校にサッカーボール寄贈という形で還元しており、これも地域密着を理想的な形で具現している好例である。

その他浦和レッズが誇るものとして、マッチデープログラムがある。 今やどのチームも何らかの形で発行しているといっていいマッチデープログラムだが、内容の充実度は群を抜いており、前節の結果や対戦チームの情報、サッカー教室のレポートやコラム・写真の数々など盛り沢山の内容で、試合の日にはスタジアムや「レッド・ボルテージ」で購入するサポーターが多い。クラブから発する貴重なメッセージ提供の場のひとつであり、他クラブでここまでマッチデーが定着しているチームはない。 第1回ナビスコ杯以降、全てのホームゲームにおいて発行されている(その他、カップ戦の決勝戦の際にも発行され、シーズン開幕前には増刊号が発行される)。 定価は税込み200円(2004年までは300円であった)。2004年までは地元の埼玉新聞が編集を行っていたが、2005年から浦和レッズが直接携わり、編集には、埼玉新聞に勤務していた清尾淳が一貫して担当し続けている。略して「MDP」という呼び方は、特に浦和レッズのマッチデープログラムを呼ぶのに使われる。

Jリーグ発足後の歩み

1992年-2000年

レッズの本拠地のひとつ(創設期のメイン)・浦和駒場スタジアム(バックスタンド)1992年 - Jリーグ開幕前に開催された最初のナビスコ杯では5勝4敗と勝ち越したが、予選5位となり惜しくも上位4チームによる決勝トーナメントに進めなかった。また、同年の天皇杯も準決勝まで進出し、翌年から開催されるJリーグでは優勝候補と挙げる解説者が現れるほどの期待感を持つようになる。
しかし、1993年の両ステージ、1994年の第1ステージ(サントリーシリーズ)と3期連続最下位となり、年間順位でも2年連続最下位という惨憺たる成績。ガンバ大阪や名古屋グランパスとともに、「Jリーグのお荷物」などと呼ばれてしまう。また1993年シーズンは、両ステージともに対戦チームの優勝を目の前で決められる屈辱を味わった。
1995年に就任したドイツ人監督ホルガー・オジェックの下で、チームは躍進を遂げる。前年に入団した元ドイツ代表のDFギド・ブッフバルト(現監督)の活躍でチームの守備は安定し、1995年の第1ステージ(サントリーシリーズ)では3位になった。この年には創設時からの中心メンバーで、「ミスターレッズ」の愛称を持つ福田正博が日本人初のJリーグ得点王となった。
その後は中位にとどまることが多くなる。通年シーズンであった1996年は、一時は首位にも立ち、優勝の期待が高まる中終盤戦に勝ち星を伸ばせず、雨の中国立競技場を超満員にした第28節の鹿島戦にPK負けを喫したことで望みがなくなり、最終的には6位に終わった。1997年、ブッフバルトが退団・帰国。1998年は三菱OBの原博実監督(後にFC東京の監督となる)の下、新加入の小野伸二を擁して第2ステージで3位となるが、翌1999年には小野の故障や選手補強の不足等のために成績は再び低迷。ついに年間順位で15位となり、J2へ降格した。この時は最終戦で福田がVゴールを決めて勝利したにも関わらず降格となり「世界で一番悲しいVゴール」と呼ばれた。JリーグNo.1の人気チームがJ2降格という出来事は、世間にも大きな衝撃を与え、テレビや新聞、雑誌等でも特集された。
2000年シーズンでJ2の2位となり、J1へ復帰。3位大分との勝ち点差はわずか1点だった。最終節のサガン鳥栖戦の延長前半5分に土橋正樹のVゴールでようやく勝利するという際どさだった(「2000年J2最終節」を参照)。

2001年- 現在

レッズのメインホームスタジアム・埼玉スタジアム20022001年 - それまでのヨーロッパ流サッカーからブラジル流サッカーへ急に路線変更。しかし、結果は失敗に終わる。第1ステージ終了後に小野伸二がオランダ・フェイエノールトに移籍。10月13日、埼玉スタジアム2002でのこけら落し(横浜F・マリノス戦)に60,553人の観客を集め、リーグ戦初(2005年現在で唯一)の6万人試合となった。
2002年 - 日本代表や磐田・京都で指揮を執ったハンス・オフトが監督に就任し、再度ヨーロッパ・サッカー路線へ戻る。ナビスコ杯決勝進出を果すが、鹿島アントラーズに敗れ準優勝(この試合のチケットが発売開始わずか数十分で完売し、チケットを手に入れられなかったサポーターも多数いた。レッズサポーターの絶対数の多さと優勝に賭ける熱意を世間に知らしめることとなった。この傾向は、レッズが決勝進出した2003年と2004年にも続いた)。苦難の時代のチームを長年支えてきた福田正博と、元日本代表主将の井原正巳が引退。
2003年 - 福田正博の引退試合が埼玉スタジアム2002に5万人以上もの観客を集めて行なわれる。11月、悲願のチーム初タイトルとなるナビスコ杯優勝を果たす。この試合では、スタンドの8割を埋めたレッズサポーターによる大掛かりなパフォーマンスが繰り広げられた(選手入場時と後半開始時に、鹿島側ゴール裏を除くスタンドのほとんどを浦和のチームカラーである赤・白・黒のシートで彩った)。
2004年 - オフトに代わってギド・ブッフバルトが監督としてチームに復帰。選手の大幅補強を実施し、ナビスコ杯の連覇は浦和OBの原監督率いるFC東京に阻まれてしまったが、J1リーグ第2ステージでは首位を快走。11月20日の試合では名古屋グランパスエイトに1-2で敗れたものの、ガンバ大阪が0-2で横浜F・マリノスに敗れたため、2試合を残して地元・駒場で悲願のステージ戦優勝を決め、翌年より1シーズン制となるためこの年が最後となるサントリーチャンピオンシップ出場権を獲得した。ステージ勝ち点37は、15試合制ステージにおけるJリーグ最多勝ち点記録であった。
この試合では、新聞紙290年相当分(約20トン)の紙吹雪を試合開始前に散らすという「史上最大の紙吹雪作戦」が展開された。また優勝決定直後には浦和駅周辺などで一部の熱狂的サポーターが発煙筒を炊いたり、バイクでパレードをするなど、過熱化した大騒ぎとなったが、幸いにも怪我人や逮捕者は出なかった。
12月5、12日に開かれたサントリーチャンピオンシップでは、第2戦に三都主アレサンドロのFKにより1-0で勝利したが、2試合通算スコアで同点だったためVゴール延長→PK戦の末惜敗。初の年間優勝を逃したが、1st・2ndステージを合わせたリーグ戦、年間総合成績では初めて1位になった。
2005年 - J1リーグ最初の8試合でわずか1勝(4分3敗)しか出来ず、最下位も経験してスタートダッシュに失敗した。また、シーズンの前半でエメルソンがカタールリーグのアル・サードへ完全移籍したことや、主力選手の故障が相次いだことなどから苦戦を強いられていたが、途中からMFポンテや元クロアチア代表FWマリッチを補強し、見事優勝争いを演じた。優勝したガンバ大阪、ジェフ千葉などの上位チームに勝てなかったために、わずか勝ち点差1で結局2年連続の年間2位になったが、得点力は、ガンバ大阪に次ぐ65得点、さらに、リハビリから復帰した坪井慶介、闘莉王、さらに、05シーズン絶好調だった内舘秀樹、急成長した堀之内聖らの活躍で、リーグ最小失点の37失点と、トラブルが多かったチーム事情を考えれば、大健闘と言える結果を残した。そして天皇杯では、マリッチが全試合で得点をあげる活躍などにより、Jリーグ発足後初(前身の三菱重工時代を含めると25年ぶり5回目)の優勝を飾った。これにより、2007年のAFCチャンピオンズリーグ出場権を獲得、悲願の海外進出が実現することとなった。なおこの年には香港で行われたフィリップス・ライティング国際7人制サッカー大会で優勝を果たしている。
2006年シーズンにさきがけ、東京ヴェルディを契約満了となった大物FWワシントンおよびDF相馬崇人を完全移籍で、セレッソ大阪からFW黒部光昭を2007年1月1日までの期限付き移籍(レンタル元は京都サンガ)で獲得、さらに小野伸二の復帰と更なる飛躍への布石を着実に打っている。
2006年2月25日、シーズン最初の公式戦・ゼロックス・スーパーカップ(対ガンバ大阪・国立競技場)に3-1で快勝、浦和レッズとなってはじめて同タイトルを獲得(旧日本サッカーリーグ時代には、前身の三菱重工時代にスーパーカップ3度優勝している)、幸先のよいスタートを切った。また、2006年J1第2節のジュビロ磐田戦に勝利したことによりクラブ史上初めてリーグ戦の通算成績が勝ち越しとなった。この試合で、レッズはJ1(初期のJリーグを含む)主催試合観客動員数500万人を突破した。これはJリーグ加盟31クラブを通しても初めての快挙であり、またJ1在籍年数が1年少ないにもかかわらず、2位の横浜F・マリノス以下を大きく引き離す数字であり、浦和レッズが永年「人気ナンバーワンクラブ」であり続けた証拠である。5月には、香港におけるフィリップス・ライティング国際7人制サッカー大会に全勝で優勝、前年に続く2連覇を達成した。

レッズランド
浦和レッズはより地域文化に根ざした総合型スポーツクラブ作り(Jリーグ百年構想)に着手するための一貫として以前から浦和市(現・さいたま市)内に建設する構想を暖めていた。
そんな中、以前より練習に使用していた桜区の荒川河川敷にある東京農業大学の運動場を移転するに当たり、同大学がこの運動場敷地の新たな借主を探していたことから情報収集に努め、その構想実現が可能と判断。2004年3月の開幕前に開かれた「レッズ2004年シーズンを語る会」で「レッズランド計画」が初めて公表された。
目標はスポーツを通しての健全な育成と健康増進で、これまで学校や企業が中心だったそれらの育成に地域コミュニティーが加わって三位一体の運営に取り組む。市民は会員登録(有料。2005年7月現在入会金一律3000円と年会費(一般)8400円。その他は外部リンクのレッズランドのページ参照)を行えば、優先的に施設を利用できる。(会員でない一般市民も利用可だが、割り増しになる)
施設は2005年7月のオープン時は暫定でサッカーグラウンドと野球場、並びにサッカーとラグビーを併設したグラウンド等が設けられているが、今後はサッカーグラウンド4面、フットサルコート8面、ラグビーグラウンド1面、野球場1面、テニス場11面、レンタルサイクルコース、野外活動拠点としてのキャンプ場などを向こう3年間かけて整備していく予定となっている。また浦和レッズの下部組織の練習拠点としても使用される予定である。
オープン時の記念式典で、川淵三郎日本サッカー協会会長は挨拶時に感極まって号泣した。彼が長年思い描いてきた夢が実現したためである。
2006年1月1日、犬飼代表が「2006年の早い時期に独立させる計画である」と声明を発表している。Jリーグが理想とする総合型スポーツクラブの先駆けとして、今後の動向が大いに注目される。3月9日より、二次会員の募集を開始、また会員種類に「法人会員」が新たに加わった。
2006年4月1日から、公的施設の管理・運営を民間に委ねる指定管理者制度に基づき、近隣にあるさいたま市浦和西体育館の管理・運営を開始した。こちらもインドアスポーツの拠点として、今後の展開が期待される。
現在は浦和レッズ・レディースの練習場ともなっており、これまで練習場を転々としていたレディースにとっても嬉しいオープンであった。また、2006年は下部組織の公式戦会場としても多く使用されている。
2006年7月1日より、人工芝サッカー場1面およびフットサルコート4面がオープンした。同時に、金〜日曜日、祝日と祝前日に限り夜間営業も開始している。

獲得タイトル
Jリーグ年間:0回
2ndステージ:1回
2004年
天皇杯:1回
2005年
リーグカップ:1回
2003年
スーパーカップ:1回
2006年

個人別タイトル
Jリーグ
1995年 福田正博 得点王
1998年 小野伸二 新人王
2002年 坪井慶介 新人王
2003年 エメルソン 最優秀選手(MVP)
2004年 エメルソン 得点王
ナビスコ杯
2002年 坪井慶介 ニューヒーロー賞
2003年 田中達也 ニューヒーロー賞・最優秀選手(MVP)
2004年 長谷部誠 ニューヒーロー賞

最多得点試合
J1

ホーム
7-2(2004年2nd第2節(8月21日)・対東京ヴェルディ1969)
7-0(2005年J1第27節(10月15日)・対柏レイソル)
アウェー
7-0(1996年J第20節(9月21日)・対柏レイソル)
7-0(2005年J1第13節(7月6日)・対東京ヴェルディ1969)
J2

7-0(2000年J2第4節(3月30日)・対サガン鳥栖)

最多失点試合
J1


ホーム
0-6(1993年2nd第9節(9月3日)・対ヴェルディ川崎)
3-6(1994年2nd第22節(11月19日)・対横浜マリノス)
アウェー
1-8(1999年1st第15節(5月29日)・対名古屋グランパスエイト)

J2

1-6(2000年J2第18節(6月10日)・対アルビレックス新潟)

最多失点勝利試合
4-3(1994年2nd第3節(8月17日)・対ジェフユナイテッド市原)
4-3(2005年J1第24節(9月18日)・対サンフレッチェ広島)

最多得点敗戦試合
4-5(1994年2nd第12節(9月21日)・対清水エスパルス)
4-6(2003年1st第5節(4月26日)・対セレッソ大阪)

最多得点(失点)引分試合
4-4(2003年1st第9節(5月17日)・対ガンバ大阪)

最多連続不敗試合
複数シーズン


10試合(2005年J1第33節(11月26日)から2006年J1第8節(4月15日) - 8勝2分)

同一シーズン

9試合(2002年2nd第1節(8月31日)から第9節(10月19日) - 8勝1分)

17試合(リーグ戦2005年J1第33節(11月26日)から2006年J1第8節(4月15日)10試合、天皇杯2005年5回戦(12月10日)から決勝(1月1日)4試合、スーパー杯2006年(2月25日)1試合、ナビスコ杯2006年予選第1日(3月29日)から予選第2日(4月12日)2試合 - 15勝2分)

最多連勝
複数ステージまたがり


8連勝(1998年1st第16節(8月5日)から2nd第6節(9月18日))

同一ステージ

6連勝(1995年1st第19節(6月24日)から第24節(7月15日))
6連勝(1998年2nd第1節(8月22日)から第6節(9月18日))

最多連敗
9連敗(1993年2nd第4節(8月7日)から第12節(11月13日))

個人記録

通算最多試合出場
325試合 - 山田暢久(継続中:初出場1994年1st第12節(4月27日)・対清水エスパルス)

最多連続試合出場
72試合 - 坪井慶介(2002年1st第1節(3月3日)から2004年1st第12節(6月12日))

最年少試合出場
16歳10ヶ月22日 - セルヒオ・エスクデロ(2005年J1第18節(7月23日)・対清水エスパルス)

最年長試合出場
36歳8ヶ月10日 - ギド・ブッフバルト(1997年2nd第17節(10月4日)・対ベルマーレ平塚)

シーズンフルタイム出場
田北雄気(1996年 - 30試合、1999年 - 30試合)
山田暢久(1998年 - 34試合)
石井俊也(2001年 - 30試合)
内舘秀樹(2002年 - 30試合)
坪井慶介(2002年 - 30試合、2003年 - 30試合)

通算最多得点
91得点 - 福田正博

最多連続試合得点
7試合 - エメルソン(2002年1st第3節(3月16日)から第9節(7月20日))

シーズン最多得点
32得点 - 福田正博(1995年)

1試合最多得点
4得点 - 福田正博(1994年1st第9節(4月13日)・対ベルマーレ平塚)

GK通算最多得点
1得点 - 田北雄気(1996年J第30節(11月9日)・対横浜フリューゲルスで得点)

最年少得点
18歳4ヶ月25日 - 永井雄一郎(1997年1st第14節(7月9日)・対ヴェルディ川崎)

(参考:リーグ戦以外の記録)
17歳6ヶ月28日 - セルヒオ・エスクデロ(2006年ナビスコ杯予選第1日(3月29日)・対FC東京)

最年長得点
36歳4ヶ月4日 - ギド・ブッフバルト(1997年1st第11節(5月28日)・対柏レイソル)

ハットトリック
J1


4得点
福田正博(1994年1st第9節(4月13日)・対ベルマーレ平塚)
3得点
ルル(1994年2nd第12節(9月21日)・対清水エスパルス)
大柴健二(1998年1st第9節(4月29日)・対柏レイソル)
岡野雅行(1998年1st第17節(8月8日)・対ヴィッセル神戸)
エメルソン(2002年1st第5節(4月20日)・対サンフレッチェ広島、2004年1st第6節(4月18日)・対大分トリニータ、2004年1st第9節(5月9日)・対アルビレックス新潟、2004年2nd第14節(11月23日)・対柏レイソル)
永井雄一郎(2004年2nd第2節(8月21日)・対東京ヴェルディ1969)
山瀬功治(2004年2nd第2節(8月21日)・対東京ヴェルディ1969)
トミスラフ・マリッチ(2005年J1第27節(10月15日)・対柏レイソル)
ワシントン(2006年J1第19節(8月23日)・対アルビレックス新潟)

J2
3得点

阿部敏之(2000年2nd第15節(5月27日)・対サガン鳥栖)

観客動員記録

最多観客動員試合
J1


ホーム
60,553人(2001年2nd第8節(10月13日)・対横浜F・マリノス、埼玉スタジアム2002) Jリーグ史上最高観客動員
9,822人(1994年1st第22節(6月15日)・対横浜マリノス、駒場競技場 - 改修前)
22,150人(1995年2nd第8節(9月9日)・対ジュビロ磐田、駒場スタジアム - 改修後)
10,354人(1995年1st第26節(7月22日)・対横浜フリューゲルス、大宮公園サッカー場)
56,652人(1995年1st第13節(5月3日)・対ヴェルディ川崎、国立霞ヶ丘競技場)
アウェー
53,570人(1993年1st第13節(11月17日)・対ジェフユナイテッド市原、国立霞ヶ丘競技場)

(参考:リーグ戦以外の最高)
64,899人(2004年Jリーグチャンピオンシップ(12月5日)・対横浜F・マリノス、横浜国際総合競技場)
これまでのレッズ出場公式戦の中で史上最高観客動員

J2
ホーム

20,207人(2000年J2第44節(11月19日)・対サガン鳥栖、駒場スタジアム)
アウェー
19,825人(2000年J2第25節(7月29日)・対コンサドーレ札幌、札幌厚別公園競技場)

最少観客動員試合
J1

ホーム

5,611人(1996年J第21節(9月28日)・対アビスパ福岡、札幌厚別公園競技場)
7,854人(1994年1st第4節(3月23日)・対サンフレッチェ広島、駒場競技場 - 改修前)
14,937人(1997年1st第9節(7月2日)・対横浜フリューゲルス、駒場スタジアム - 改修後)
9,168人(1995年1st第22節(7月8日)・対サンフレッチェ広島、大宮公園サッカー場)
28,054人(2002年1st第9節(7月20日)・対コンサドーレ札幌、国立霞ヶ丘競技場)
31,965人(2003年1st第14節(7月26日)・対ベガルタ仙台、埼玉スタジアム2002)
アウェー
3,610人(1997年2nd第1節(7月30日)・対ジェフユナイテッド市原、市原臨海競技場)

J2

ホーム

13,408人(2000年J2第26節(8月2日)・対アルビレックス新潟、駒場スタジアム)
アウェー
4,891人(2000年J2第34節(9月24日)・対ヴァンフォーレ甲府、山梨県小瀬スポーツ公園陸上競技場)

その他
ゴールキーパー初の得点

1996年Jリーグ第30節(11月9日)の横浜フリューゲルス戦で、79分に味方が得たペナルティーキックをゴールキーパーの田北雄気が決め、ゴールキーパーによる初の得点を記録した(それ以降は1999年のナビスコ杯で京都パープルサンガの松永成立がクリアしたボールを、また2004年のJ2リーグで横浜FCの菅野孝憲がフリーキックを自陣から直接ゴールに入れて得点した記録がある)。
4試合連続Vゴール負け
1999年2ndステージ第6節(9月4日)のジュビロ磐田戦から第9節(9月18日)の名古屋グランパスエイト戦まで、4試合連続で全て1-2のVゴール負けを喫した。なお、このステージでは第2節の柏レイソル戦でもVゴール負け(2-3)しており、勝負どころで勝ち点を奪えなかったことで同年のJ2降格を招いてしまった。2003年以降はVゴール方式を採用していないため、この記録は今後破られることはないと思われる。
1試合2名のハットトリック
2004年8月21日の東京ヴェルディ1969戦で、永井雄一郎と山瀬功治の2名がハットトリックを達成(1998年9月26日にジュビロ磐田の奥大介と高原直泰が達成して以来2例目、2006年3月12日にガンバ大阪のフェルナンジーニョ、マグノ・アウベスが達成したのが3例目)。

さいたまダービー
2006年現在、大宮アルディージャとの対戦は、日本で行われている唯一のダービーマッチである(同じ地域=さいたま市を本拠地としているという真の意味で。ガンバ大阪とセレッソ大阪は前者が吹田市で後者が大阪市。他の同一地区に存在する2球団は一部と二部でリーグ戦では対戦がない)。サッカーの街さいたまを二分する熱いダービーである。成績的には浦和レッズが優勢であり、2試合とも浦和レッズサポーターが約8割を占めている。

国際試合・親善試合
92年4月4日浦和国際親善サッカー 対ポートオーソリティ(タイ)駒場スタジアム。3-0で勝利。
93年4月24日浦和国際親善サッカー 対マンチェスター・シティ(イングランド)駒場スタジアム。0-2で敗戦。
94年6月29日浦和国際親善サッカー 対インデペンディエンテ(アルゼンチン)駒場スタジアム。3-5で敗戦。
94年7月19日コカコーラカップ 対オリンピア(パラグアイ)福岡。0-1で敗戦。
94年10月8日国際親善サッカー 対全北現代モータース(韓国)新潟。2-1で勝利。
95年8月1日国際招待サッカー 対フラメンゴ(ブラジル)さいたま市大宮公園サッカー場。1-3で敗戦。
96年3月10日さいしん国際親善サッカー 対ペニャロール(ウルグアイ)駒場スタジアム。1-1で引き分け。
96年12月14日さいしん国際親善サッカー 対VfBシュツットガルト(ドイツ)国立霞ヶ丘陸上競技場。5-0で勝利。
97年7月22日シャープカップ 対マンチェスター・ユナイテッド(イングランド)駒場スタジアム。1-2で敗戦。
00年1月23日日蘭交流四百周年記念 対アヤックス(オランダ)アムステルダム・アレナ。1-1で引き分け。
01年2月25日国際親善試合 対ロサンゼルス・ギャラクシー(アメリカ)駒場スタジアム。2-1で勝利。
02年5月26日国際親善試合 対パラグアイ代表(パラグアイ)松本平広域公園球技場。0-2で敗戦。
03年6月4日さいたまシティカップ 対フェイエノールト(オランダ)埼玉スタジアム。2-2で引き分け。
04年7月27日さいたまシティカップ 対インテル・ミラノ(イタリア)埼玉スタジアム。1-0で勝利。
04年8月3日ボーダフォンカップ 対ボカ・ジュニアーズ(アルゼンチン)オールド・トラフォード。1-5で敗戦。
05年5月31日国際親善試合 対ハンブルガーSV(ドイツ)埼玉スタジアム。0-2で敗戦。
05年6月15日さいたまシティカップ 対FCバルセロナ(スペイン)埼玉スタジアム。0-3で敗戦。
05年7月30日ボーダフォンカップ 対マンチェスター・ユナイテッド(イングランド)埼玉スタジアム。0-2で敗戦。
06年7月31日さいたまシティカップ 対バイエルン・ミュンヘン(ドイツ) 埼玉スタジアム。1-0で勝利。
その他、海外キャンプ時に現地のクラブと親善試合を数多く行っている。

ユース・ジュニアユース
近年、トップに続きユース・ジュニアユースも輝かしい活躍を見せている。 ユースは03年の日本クラブユースサッカー選手権大会に準優勝し、04年の日本クラブユースサッカー選手権大会に3位、Jユースカップベスト4と徐々に頭角を表してきている。セルヒオ・エスクデロや加藤順大など、ユース出身の選手も台頭してきており、また現在のユースチームには有望な選手も多くいるので、将来が楽しみである。 ジュニアユースは01年の日本クラブユースサッカー(U-15)選手権大会を優勝、05年の日本クラブユースサッカー(U-15)選手権大会優勝、高円宮杯 全日本ユース(U-15)選手権大会優勝とジュニアユース最強との称号を欲しいままにしている。

アマチュアチーム
1997年に当時の横山謙三GMにより登録されたチームで、主にトップチームに昇格しなかった元レッズ・ユース選手らが進学や社会人となった際にサッカーを続けるための受け皿となっている。浦和レッズ・アマは浦和市リーグからスタートし、後には埼玉県リーグ1部にまで昇格した。

初年度には横山自身や当時の岡野良定レッズ会長(当時80歳)らも選手として登録された。後にはトップチームを引退した一部の選手も登録されている。

背番号について
今日、Jリーグに所属するクラブの多くは背番号12を、サポーターのための背番号(レギュラー11人に続く12人目の意味)として永久欠番としている。が、浦和レッズは、2006年のJ1所属クラブでは唯一、背番号12を欠番にせず選手に着用・使用している(J2では横浜FC、サガン鳥栖が背番号12を使用している)。背番号12は現在は黒部光昭が着用。また、チームマスコット「レディア」の背番号17もサポーターのための欠番になっていない(ベンチ入り16人に続く17人目の意味だが、規約改正で2006年からは18人がベンチ入りとなっている)。背番号17は現在は長谷部誠が着用。

他クラブとの特異点
上記の「背番号12使用」以外にも、浦和レッズおよびサポーターは試合運営・サポート体制等において、他のクラブとは明らかに異なる点がいくつかみられるのも特徴である。クラブ・サポーターともども、強いこだわりが感じられる。

ゴール裏サポーターが襷を使わない(以前は使っていたことがあった)
試合開始前に、選手紹介時以外に組織的な応援(応援の練習)を基本的にしない
試合開始前に、有名人などをピッチ上に招いてのイベントを一切行わない
得点時に、スタジアムDJによる「ゴーーール」のアナウンスなし(DJによる余計な煽りが一切ない)
チームマスコットであるレディア、フレンディアの着ぐるみがスタジアムに登場しない(こどもの日の前後の試合は例外)
posted by りゅう☆ at 10:32 | Comment(1) | TrackBack(0) | スポーツ
この記事へのコメント
Wikipediaから抜粋していると思いますが、下記の部分は間違いです。各メディアで出ていた数字自体が推測で根拠のないものです。

この試合では、新聞紙290年相当分(約20トン)の紙吹雪を試合開始前に散らすという「史上最大の紙吹雪作戦」が展開された。

正解は27トンです。
こちらで測定結果が出ています。
http://www.saishin.co.jp/column/seio/353.html
Posted by もん at 2006年09月18日 20:37
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